【随筆】
生活(くらし)の中の音
村山正則
◎かつてのこの國の生活には「静けさ」があったように思う。朝、目をさます。窓を開(ア)ける。小鳥が無心に囀っている。新聞配達の人が来たのか、自転車のブレーキの音。しばらくして、「オハヨウ、ごくろうさま」と隣のオバサンの声。──こうした「音」の中で一日が始まった。ひと昔前の生活には貧しさの中にも豊かなゆとりがあった。
今、私の住む瀬戸内海を前にしたわが町も、かつては静かな町であった。暮らしの周囲には日常のゆるやかな時間が流れていた。自然の音、生活の音に囲まれ、「音」そのものに季節感が伴っていて、それが当然のような平穏な社会であった。
今はどうか。瀬戸大橋という不粋なものが絶景の中に作られて以来現代の文明社会は余りにも自己本位で、人間の作り出す騒音の中に習慣づけられ乍ら生かされているのが、私たちの共通の悩みではないか。
物売りや廃品回収の車に取り付けたスピーカーは殊更に音量を上て、文字通り騒音をまき散らす。加えて事もあろうに空からの威圧的な宣伝飛行――世界広と言えども、こんな騒音を騒然と許しているのはこの國だけじゃないのか。
近代的な町づくりの形態になって、虫や鳥も生活圏がおびやかされて自然の音がホントに少なくなった。交通の音だけが目立つ。どこから湧いてくるのか銀バエのような暴走車。「うるさい」と言えばこういうときに限って「表現の自由、権利」が出てくる。
静けさとは基本的人権の一つである筈である。季節の音には行政はもっと敏感であって欲しい。
こんな世相の中で、「ゆとりある生活」、「実感の伴う豊かさ」……という行政のうたい文句の空しさはどうだ。
◎ところで、秋といえば虫の音(ネ)。わが家のくさむらでコウロギが賑やかになった。昔ほどではないにしても、ここにはまだ秋の風情が残っていてほほえましい。最近の子供たちは自然の虫の音をきく場所も失われて気の毒である。当地でも自然博物館で虫の音をきかせている。子供たちは、虫カゴの中で鳴くものと思うようになるのじゃなかろうか。虫たちもこんな所で鳴かされては可愛想だ。
今日の生活の中の音のいらだたしさと、どうしようもない文明のわがままを思うとき、二十一世紀に向かって近代文明を進めるのを否定するものじゃないが、せめて十九世紀の昔に思いを馳せて、人間中心の生態系を取り戻すことを考えたら、――と考えるのことの切なるものがある。
(児島医師会報より)