「老後」という表現
村 山 正 則
最近、老人クラブや福祉団体などから、「老後の生き方」、「老後の楽しみ方」、「老後の云々」……ということについて話をしてくれとの依頼がよくある。会場に出向くと当然のことながら、高齢者の集りである。この國では六十五才を過ぎると、法的に「高齢者」という称号が頂けるようだが、まさに会場は高齢の盛りの人ばかりだ。暑い盛り、寒い盛りを「暑中」、「寒中」というなら、高齢の盛りは「老中」とでも言ったらどうか。「老後」という語句の印象よりは余程、話もし易い。「老後」という言葉が面白くないのだ。
「老後」を広辞苑でみると、「年老いて後」。「年とって後」―― とある。
「後」という表現は、あることが終ったのちのことを示すものである。食後、戦後、卒後、病後、―― 。しかし、「老後」という文字をつくづく眺めていて、どうもフに落ちないのは ―― ボクだけか。
年老いて後、―― 老のあとは死。死までの期間……ということか。
百才以上を生きる人が一万人を超える今日、六十代、七十代は熟年、壮年である。「老後」というのは百才以後に使用されるべきではないのか。
かつて、百才を超えてもカクシヤクとしてテレビや多くの行事に出演していた頃のキンさん、ギンさんに、若い報道人がマイクを向けてきいた。
「たくさんの出演料……、何に使っておられますか?」
二人は声を揃えて答えた。
「 ―― 老後にそなえて貯金しております。」
このユーモアもさることながら、老後という言葉はこれでこそ生きるのである。
ところで ―― 、先般、「老後に関する意識調査」なるものを、ある地方銀行が発表しているのが目に入った。調査対象は二十才以上の男女。中年者が老後という語句に関心をもつのは判るが、最近では二十代でも四十五%が関心ありと答えている。人生のスタイルが実生活にも社会的にも切実になった故であろうか。この調査では「老後」という語句から受ける印象を様々な表現で教えてくれている。
若年者の印象としては、「隠居」、「気楽」、「自由」、「悠々自適」、「第二の人生」、「ゆとり」……。高齢者はこうありたいものではあろうが、現実に六十代以上を生きる年令層の方は、まことに悲しい。曰く、「孤独」、「絶望」、「退屈」、「不安」、「ボケ」、「介護」……。現実生活からの切実な印象ではあろうが、これは「老後」という文字が高齢者に退廃的感情を先走しらせるのではなかろうか。
この國では江戸時代から明治初期にかけて、「老後」という不粋な文句はなかったものだ。それに当る語句に「老入り」という表現で使われていたときいている。人生五十年の時代、四十才をすぎるとそろそろ世代交替に入り、家、社会への相談役、指導的立場として隠居した。そこには「老い」に価値を認め、尊敬の眼で迎える社会、思想が存在したことが偲ばれる。二〇〇〇年厚生白書なるものには、「長年に亘って知識、経験、技能を培い、豊かな能力と意欲を持つ」……のが、六十五才以上の高齢者である ―― と評価しているが、そこに「老後」なる語が出てくるところからその後の人生観に悲観論が生ずるのではないのか。昔の狂歌ではないが、
”くどくなる、気短かになる、グチになる、
心はひがむ、身は古くなる “―― のである。
寿命が長くなったということは、「老い」の期間が伸びたことであるから、高齢者の称号を頂いた者はもっと堂々と自らの余世を自分で考えて生きるべきである。盛りを過ぎると「残」という語が使われる。残暑、残飯、残党、老残……。「老残」は古くから使われた語句だが、どうも人様の前に言える代物ではないが、これは「老後」という語句に通ずるものを感ずるではないか。
”手はふるう、足はひょろつく、歯は抜ける、
耳はきこえず、目はうとくなる。“
「老後」の語句からこうならないためにも、ここは一つ、江戸時代に思いを馳せて、二十一世紀は「老後」という表現を廃して、「老入り」と称したら、いかがなものか。
