湯 豆 腐
村 山 正 則


 強烈な太陽の光と汗の季節の「冷奴」に対して、乾いた木枯らしの吹く冷めたい夜の食卓は、何と言っても「湯豆腐」だ。夏と冬は豆腐があれば充分。この国の冬の味覚は豊かであるが、殊に豆腐があれば事は足りる。

 子供の頃は余り好物ではなかったが、豆腐の味が判るのはどうも大人になってからのようだ。豆腐の「腐」の字が子供の頃から気になっていたが、いつ頃だったか、「食」の書をよんでいて目のウロコが取れた。「やわらかい寒天のようなプリンプリンした状態を表わす意…」ということを知って以来、腐った印象が拭えて安心している。

 豆腐はこの国では古くから多くの人に愛されてきた食物であるが、今日のぜいたくな世の中で、その存在は今も認知されているのかな…と思っていたら、国の調査というものは、時には好いことを教えてくれるもので、今日でも四千四百万世帯で一年間に八十丁ずつ食べられている。――という統計がある。経済不況のこの時代に、豆腐業界はまだまだ安泰ということだ。

 奈良時代に中国から伝ったといわれる豆腐は、ボクの子供の頃は、肩の天秤棒に大きな桶を前後にぶら下げた豆腐屋さんが、のどかにラッパや鐘を鳴らして売りに来ていた。白い豆腐が桶の水の中で行儀よく並んで座っていた。オジサンは注文に応じて上手に手ですくって鍋や皿に入れてくれる。希望によっては手のひらに置いた豆腐を包丁で器用に切ってくれた。この頃、デパートやスーパーでみられる豆腐は、不粋なビニールに閉じ込められて窮屈そうに棚に並んでいる。あれでは豆腐が気の毒である。桶の水の中に泰然と鎮座していてこそ似合う食品ではなかろうか。

 食文明最盛期の今日、この国では和洋漢の食物を自由に選んで食べるという、ぜいたくな食生活になり下がってしまっているが、思うに、日本人には大根、刺身、豆腐、――この三つさえあれば、栄養、味覚の点で他の料理はなくてもすむ、とボクは思っている。主食の米の飯に飽きない日本人は、副食として最も飽きないのがこの三つではなかろうか。どんな時代でも日本人の食生活についてきたものではないだろうか。

「今晩のオカズ、何にしようかしら…。」

こういうことを言う主婦は、落第ということになる。

 ところで、湯豆腐。――

鍋を据えて、豆腐が熱くなるのを待つ。湯豆腐の湯気は淡くやわらかで、寒さをときほぐしてくれる。鍋の煮える音もよい。茶事の釜湯の奏でる音が松風なら、この鍋のたぎる音は、谷を渡る風とでも言えようか。世の雑念を忘れさせる音だ。豆腐の白の素材。さわやかさ。――

 ほどよく熱くなって食べ頃になると、沸騰した湯の中で豆腐がお互いにぶつかり合いながら踊っているのを、箸でつかまえて引き上げる。調味料と共にひと箸、口に運ぶ。やわらかいプリンプリンが咽頭を刺激し、食道を愛撫して胃に落ちる。理屈抜きでうまい。安心出来る味覚。安堵の思いが胸にひろがる。醤油の中の調味料は人さまざまであろう。好みにとやかく言うことはあるまい。側らに酒津焼きの徳利と、備前焼きの盃。先着の豆腐を追うように、ほどよい熱燗の酒が胃の中で落ち合って乱舞する。

 家庭で、時には気の置けぬ友と鍋を囲む楽しみは、人間の官能と精神がユカイに結びつくものであろうか。

  湯豆腐に 箸さだまらず 酔いにけり


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