寒い日の夜道で路端の屋台店の看板をみると、ちょっと寄ってみたくなることがある。その昔、教室の医局に籍のあった頃、独り身の深夜の帰宅の夜道で、コートの襟など立てて立ち食いしたのは、遠い昔のこと。
冷めたい夜のあのノレンの中は、救われる思いであった。―――
「センセェ! ウチのラーメンはスープが命なんだから少しは飲んでって下さいよ。」
汁を残すとオヤジさんから苦情が出た。
中華そばの汁は、丼に箸を立て、二センチメートルの深さの量を残すのがスマートな食べ方だ。‥‥同僚たちとこんな知ったか振りを語りながら食っていたのもなつかしい思い出だ。
屋台の楽しさは何か。大きな期待をもってノレンをくぐるのじゃなく、手軽にちょっとつまみ食いをする楽しさ。立って食べるという無作法の喜びも混じっている ――― というところか。
屋台から少し成長した頃になると、評判の好い店を求めてうまい「鍋やきうどん」などに興味が移った。「うまい」ということは、「値段が安くて‥‥」という必須条件がついてのことで、高価なものはうまいまずいの判断の対象にはならなかった。
「熱いから気をつけて下さいよ。」
鍋を運んでくる店のオバサンのこの文句がうれしい。メニューにない「但し書き」というところか。
「わかってますよ。」‥‥
箸を割る。割り箸の乾いた感触。
ふわりと立ちのぼる湯気が鼻を包む。クツクツ‥‥と鍋は店の調理場の余韻を残して、まだ煮えている。おいしい音だ。
うどんの肌はふくらみ、さや豆は青く光り、カマボコ、油揚げ、大きなエビの天婦羅、ひとつ目の卵、‥‥底の方に餅が一つ、沈んでいる。スプーンで汁を吸う。割り箸でうどんをはさみ、冷えた口に運ぶ。うどんは快い滑りで咽頭をくすぐり、食道を愛撫して胃に納まる。
食うほどに目に泪、鼻に鼻水。この生理現象がこの際の附きものである。出るから好いのだ。ハンカチ片手に熱さをむさぼる。
天婦羅を食べてしまうと、何故か、鍋は途端に淋しくなる。
汁は一センチの深さを残して食べ終る。ひと鼻かんでホッと一息。―――
洋食党であった同僚のO君は「マカロニグラタン」を好んで推奨していたが、あれはよその国の鍋やきうどんだ。この国の冬はやっぱり「鍋やきうどん」に限る。食欲旺盛だったO君、Y君、K君たちとのうまい夜食であった。
――― 昨年春の叙勲で、勲四等に叙せられたO君の名前を新聞紙上にみた。長らく公立病院長として敏腕を振るっていたO君の栄誉の記事であった。
「勲四等と鍋やきうどん」―――
新聞紙上に若き日のO君の顔が浮かんだ。