新春―つれづれの記―
村 山 正 則
◎「お正月」という語は親しみのある佳い言葉である。この文字を見ると、過ぎし旧制中学生時代の国語のI先生を思い出す。”新年を「正月」と言ったのは、古事記、日本書紀にも明記されている古くからの呼称である。“――と教えられた。
◎「元旦」というだけで周辺の空気に清々しさを覚える。目に映る風景に浄らかさが漂うのは、何故か。時の流れに区切りはないのに、昨日と今日で心改まる思いを味わえるのが正月――というものか。昨日と同じ水で手を洗い、同じ水で洗顔する。新年の水を「若水」というが、これも好い言葉だ。それを水道の水で…と言ってはミもフタもない。新しい目で近辺の風景を眺めると、山や家並みの姿もひときわ森厳。人の心の不思議さを思う。
◎ところで、新年の外来での会話は、ふり返ってみれば毎年同じような文句が交わされるのも面白い。
男性は、「また一つ齢をとりましたなァ…」
女性は、「お正月のたびにシワが増えまして…」
こんな会話で一年が始まる。
「男は感情が年をとり、女は顔が年をとる」
――C・コリンズはこう言っているが、外来の会話の中で、”―なるほど…“と思わせられるひとときである。女性は感覚で生き、男性は思考に支配される…ということか。
女性は男性に比べて痴呆が少ないのは、化粧をするからだ。――という老年病学者がいるが、日常生活の中で女性の容貌への頭の使い方をみてもそれは言い得ているかも知れない。
◎「顔」と言えば、齢と共に男はどうも古女房の顔がないと納まりがつかなくなりつつあるのを感ずるのは、ボクだけか?
”先ず女房の 顔をみて 年改まる“(虚子)
”元旦や 今年もどうぞ 女房殿“(吉川英治)
”新聞に 妻は眼鏡を添えてくれ“(正則)
◎初詣での途中で幼な友達に出会った。
「この間正月を迎えたと思ったのに、もう正月。一年がアッという間じゃのォー。子供の頃はうんざりする程、長かったのに…」
”六十代の一年は二十代の三倍の速さで去ってゆく“――とは、フランスの哲学者P・ジャネの言である。いわんや七十代においておや――。高齢者の特典的感覚であろう。一年が短く感ずるのは時間の最小単位の「一秒」が短くなりつつあるのか。
「一秒」といえば、ボクの手許にある分厚い本の中に、こんなことが書かれている。
”一秒とは、平的太陽日の八万六千四百分の一である“と決められていた。それが三十年前に次の如く訂正された。――とある。
”一秒とは、セシウム百三十三原子の放射周期の、九十一億九千二百六十三万千七百七十倍を一秒とする“。
それがどれだけ時間的に長くなったのか、短くなったのか?絶対的と思っていた一秒の長さが、何年置きかに変えられては、齢と共に一年が益々短くなるのではないのか。三十年後の今日、セシウムの放射周期が計算し直された記録はないか…と、探索しているうちに、いつしか三ヶ日が過ぎてしまった。――
◎さて、今年は巳年だが、蛇のように冬眠する余裕もない多忙の年であろう。厚生労働省とやらの国籍不明の通達文書に悩まされる一年であろうが、とにかく健康でささやか乍らも新世紀の医療に取り組んで参りたいものである。
未来はためらいながら近づき
現在は矢のようにとび去り
過去は――静かに立っている
(シラー)
