紺の背広
村 山 正 則
気に入っていた合いの背広がくたびれてきた。ポケットの中に穴があいて小銭が背中の方で迷遊している。よれよれではないがボタンも一つ取れかけた。そんなことに気づいたのは、昨年の晩秋であった。お洒落には余り縁はないが、その無頓着を反省して、初春の休日、街に出たついでにデパートの紳士服売場をのぞいた。めったに訪ねない売場だが、替え上着の選択というものは誰にも相談しないで、独りで探すところにひそかな楽しみがある。
さすがに外国製品名がむやみに目につく。
”今が季節ですからお安くなっております“
きっと買ってくれる客だ…と目をつけたのか、ベテラン店員の愛想がよい。
”これからの時節、明るい色が…“
あれこれと着用してみる。
”若々しくお見えです!“…
大正生れの男をつかまえて、背中に蕁麻疹の出そうなお世辞。――
”大きなお世話“というものだ。
外国の一流メーカー品の名前を並べられても、ボクにはパソコンの名称や記号を聞かされているのと同じだから、きく耳はない。しかし、着こなしの素晴らしかったシャルル・ボアイエとか、ジャン・マレー、ハンフリー・ボガードなど、きいていて思わず目が細くなりそうな、かつての映画俳優の名前の出てくる話題は、さすがに言葉の選び方がうまい。
ボクには普段着として齢相応のものであればいいのだ。おすすめの明るい色は辞めて濃紺色にした。紺は昔から好きな色だ。初めて着た背広も紺色であった。女性でも紺のスーツを着こなしているのを見るとスッキリして見える。いつだったか、家内にそれを言うと、「制服みたいでイヤだ」――とボクの言うことにケチをつける。家内とは他のことでも意見の合わないことが多いから、ボクは気にしてないが…。
今年の正月、四才になる孫が大人のグラビア雑誌を開いてみていた。その時、「アッ、おジイちゃんが出ている!」「どれどれ…」と孫の指さすカラー写真を見ると、何と、ボクとは似ても似つかぬ紺の背広を着た中年のハンサムモデルではないか。
――孫だけはうれしいことを言ってくれる。
届けられた濃紺の上着を着ていても、家内が気づかないのは、ボクの背広に紺色が多いからか。はたまた、ボクの着るものに無関心なのか。――先日、家内に、「そのスーツ、好い色だ、よく似合うな」…と言ったら、「二年前から着てますよ」…と言う。何を今更ということか。そうか、お互い着るものに無関心なのは今に始まったことではないということだ。――
それでも日々、こともなく無事に過ぎている。
紺色は多くの人が着用する色彩ということもあって、余り目立たない。それが好いのだ。服装は平凡で目立たない方がよい。ホテルのロビーなどで派手な縞のスーツを着てデンと坐っている人を見ると、自己主張の強い人か、と思う。付き合い難い印象だ。
数ある背広の中から、普段の外出にはとかく着慣れた同じものを着用しがちである。古くなったスーツもかれこれ十年以上は使用してきた。長持ちさせた方だろう。男の平均寿命を使い果たす年令が近づいている今日、今更、背広を新調することもないだろう。
――でも、夏の背広をもう一つ…と思っている。背広のことなどよりもっと大事なことがいくつもありそうだが、しかし、たかが背広一着ではないか。それを楽しみにしている。
