随筆
年賀状
村山正則



 元旦の朝、 郵便受けに年賀状がごっそりと入っているのを見るのは、 ありがたいことだし、 うれしいものだ。 一枚一枚をゆっくりと目を通していると、 送って下さった人との過ぎし交遊が浮かんでなつかしい。
 年賀状は虚礼といわれることを耳にするが、 必ずしも私はそうとは思えない。 大いに出して大いに頂きたいものだ。 一年に一度ぐらい、 「おォ、 あいつも健在なんだナ・・・・・・」 と、 お互いに思い思われる日がある方が好い。 顔を合わせることのないまゝ に何年も過ぎてしまうことなど、 よくあることだ。 年賀状の効用は、 仲間意識の確認と生存証明にある。 年に一度の賀状だけでつながっている人間関係だってあるのだから。 ・・・・・・・

 毎年千枚近く頂いて、 出すのは数百枚か。 新年を寿き、 久闊を叙すといううれしいことの反面、 書くのは辛い面もあるが、 頂戴するのは何ともうれしいものである。
 賀状というものは年の始めの便りであるからには、 心をこめて自分で書くもの、 という本来の心に則りたいものだ。 もらってうれしく、 出して嬉しいものでありたい。
 もらって嬉しいものの一つに、 一家揃っての家族写真や、 媒酌をつとめた若夫婦が子供を囲んでの写真とか、親でなければ捉えられないような幼い子供のショットなどの賀状。 幸福な家族生活がしのばれてほゝえみが浮かぶ。
 私もいつの頃からか賀状に干支の絵を描いて送っているが、 肉筆だといって喜ばれていた。 いつしか干支がひと回りして、 それを見た見知らぬ人から、 返信には肉筆の干支を描いて私にも送って下さい・・・・なんて、いさゝか厚アツかましい人もいたりして。 ・・・・・・ 
 一枚一枚肉筆では数も増えるばかりで、 郵政省は喜ぶだろうが、 こちらはいさゝか限度がきて、 いつしかコピーに切りかえてしまったら、 肉筆を喜ぶ人の中には、 あと三枚で干支がひと回りするから、 もう三年肉筆をつゞけてくれ・・・・・・などという人もいる。

 賀状の中には活字印刷だけのもの、 上書きだけなぐり書きしたものなど、 いかにも事務的なのは面白くない。とかく宛名までワープロ機で印刷された小片を貼ってある郵便物は、 賀状に限らず不愉快なものではなかろうか。 枚数が多くなれば仕方がないという弁解もあろうが、個人の場合は、 やはり数百枚が手書きの限界であろうし、 交際の限度でもあろうか。

 ところで、 郵政省では例年師走になると締切り日を決めて、 「早く書け」 と指導するのがこの国の年頭挨拶状の風習になっている。
 暮れのあわたゞしい時に、 「よき新年を迎えました」 とか、 「この正月も一家揃って正月の朝を・・・・・・」 なんて、どうもしらじらしい感がある。 「好いお正月ですネ」 ・・・・・・などと書いてあるといくらなんでもあんまりだ・・・・・・と思うことだってある。 年賀状だけではない。 雑誌や広告類だって何ヶ月も前に原稿を作らねばならぬこともあるだろう。 暑い季節に毛皮のニューモードの写真を撮ったり、春先のまだ寒いうちに水着の写真を撮ったりというのも、当たり前の時代であることは判るのだが、 年の始めの賀状だけは年が明けてからゆっくりと書けないものか。押し迫った年の瀬に書くとなれば、 「年賀状」 などと空々しいことを言わないで、 いっそのこと「年末状」 としたらどうか、 と郵政省に忠告したくなる。 新年といっても昨日と今日が特別変るわけではないことは判っていても、 賀状というものは、 かつてのよき時代の如く、 年が明けて正月に書かれるのが似合うのである。

 元旦の午後のひとゝき、 窓ぎわの机に住所録や名簿を揃え、 年賀状の束を置いて、 一人ひとりの顔を思い浮かべながらメッセージをしたゝめるゆとりの時間のもてる世の中でありたいものである。


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