”診療余話”
村 山 正 則 


◎ 「遠来の患者」   「友あり、 遠方より来たる、 また楽しからずや」 −−−孔子の論語の起句にある、 よく知られた文句だ。 遠来の客はなつかしく、 楽しいもので積もる話がつきないものだ。  これが 「遠来の患者」 となると−−−内容が変ってくる。  遠くから……といえば、 かつてこういうことがあった。 ニューヨークにいるかつて大学の教室時代の友人から電話があって、 手の骨折をした患者がそちらに帰国するからみてくれという。 すでにこちらを経ったとのこと。 四・五日後、 その患者がはるばるやってきた。 この地の商社マンであったが一ヶ月余り加療して、 再びニューヨークに出かけて行った。  これも、 大分以前の話だが、 津山市からわざわざ毎週二回、 胃疾患で保存的療法で通ってきた女性がいた。 朝早くそちらを発って、 電車、 バスを乗り次いで当院にやってきて、 注射を受け、 当日は実家に泊まり、 翌日津山に帰る。 これを二、 三ヶ月余りつづけた。 どうしてあちらで治療をしないのか、 好い先生を紹介しますから……と何度もすすめたがきいてくれない。 そのうちに思ったことだが、 治療は口実で実家に帰りたかったのが本音のようだった。 わが"名声"をきいて………ということではないのは確実のようだ。

 ある朝、 外来で私の前に坐った中年の紳士がいた。 カルテをみると、 住所は山口県。 勤務先の会社も山口市となっている。 遠路をたずねてよく来てくれたもの……とエリを正して相対した。 「はるばる遠くからお訪ねいただいて……」 すると、 紳士は、 何をおっしゃる…と言わんばかりに軽く受け流した。 「いや、 ナニ…すぐ近くの会社まで此の間から出張できましたが、 カゼがも少しはっきりしないもので、 こちらの社長にたずねましたら、 先生のところに………と言われまして、 ついでに寄らせて頂きました。」 ◎ 「 だ ら し 」   「だらしない」 ということばがある。 子供の頃、 大人からしまりのない言動を指摘されるとき、 よく言われたものだ。   「だらしがないからそんなケガをするんだ。」 来院のたびに叱っていたら、 彼が言った。 「先生はボクの顔をみるとダラシナイ、 ダラシナイと言われますが「だらし」 って何んですか。」 「しまりのない人間をそういうのだ。」 ――とは言ったものの、 改めてそう言われると、 「だらし」 とは何か、 語原は何か、 ということは、 考えてみたこともなかった。

 日本語には倒語という表現があって、 「話のタネ」 をひっくり返して 「ネタ」 といったり、 「素人」 (シロウト) を 「トウシロウ」、 「場所」 は 「ショバ」 となる。 「だらし」 とは 「しだら」 の倒語で、 江戸時代から使われたようだ。 「しだら」 とは辞書でみると、 行為の検束、 行為の始末、 とりしきりを言う、 とある。 そういえば 「しだら」 の頭に 「不」 をくっつけて否定形にすると 「ふしだら」 になる。 「ふだらし」 と言うことばはない。 「ふしだら」 ―― 「だらしない」。 ボクはこのことを、 鹿児島医師会の岡 良樹先生の著書で知った。

◎ 「投 薬」  病院や診療所の薬局の前で、 薬を受けとる間に 「投薬」 という文字を眺め乍ら 「薬を投げ与える」 …と受け止める人がいるときいた。  医療関係者は何気なく使用してきた習慣で意識外にある言葉だが、 そうきかされて文字をかみしめてみると印象的にはいささか違和感があるのも否定出来ない。

「投」 の意義を漢和辞典で確かめてみると、 投げうつ、 運ぶ、 とどまる、 贈る…などの意をもっていて、 人から物を贈られることを 「恵投」 と表現するように、 投げる、 くれてやる…のほかに 「贈る」 の意があるのも事実である。

「投薬」 という語は江戸時代以前から使用されているといわれるが、 当時の医師は漢字の素養は今日とは比較にならぬほど高かったはずで、 当時からごく自然に敬意をもって使用されてきた語句ではなかろうか。

「投薬」 とは即ち 「お薬を差し上げる、 提供させて頂く」 と受け止めて頂きたいものだ。 「投」 の付く語句には 「投票」 「投函」 「投書」 「投機」 …など数多い。 「投稿」 と言う語句もある。 この拙分を出させて頂き、 御批判を仰ぎたい。 ――という意味のこもった語句なのである。
(平成10年7月号)


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