子供はときに真実を教えてくれることがある。
園医をしている幼稚園に検診に出かけたある日、 園長先生が子供たちの絵を見せてくれた。 幼児の絵はたびたびみる機会もあったが、 こうしてじっくりと見つめていると、 色んなことを教えられるものがあると思った。
太陽はとかく赤色で描かれることが多いが、 園児の絵は黄色で画いたり、 オレンジの輝く色で表現されている。 真夏の灼けつくような太陽は真紅がふさわしいだろうが、 太陽が常に赤色と決めることは出来ないだろう。 穏やかな晝の太陽は黄金色がふさわしい。 日の出は赤というよりもオレンジの色調に近い。 子供たちは素直に描き分けている。
信号機の色別でも教えられた。信号機の青は、 本来緑だったのだ。 誰も 「緑」 の信号とは言わない。 「青」 と言われるから 「青」 に見えていたのだ。 園児の描く信号機の 「青」 は、 明らかに 「緑」 で描かれている。 改めて信号機を見てみた。 確かに 「青」 と言われる信号は 「緑」 であった。
自然をみる目は、 ひょっとすると子供の方が真実に近いのかも知れない。
画用紙一杯にリンゴを描く子は、 自分の手のひらに乗り切らないその大きさを感じたままに表現しているのだ、−− ときいたことがあるが、 お母さんの顔や、 風船を画面一杯に描いたのをみると、 その感情が表現されているのであろうか。 大人は子供の真実をみる偉大な感覚に気づかずに、 いつまでもわが掌中にある −− と思いたがるところに、 ほほえましさと共に、 「反省」 がなくてはなるまい。
とかく、 私たちは子供の頃から、 太陽は赤、 お月さんは黄色で表現していた。 欧米の子供は太陽は黄色で描くが、 日本の子は赤で描く−− と何かの本でよんだ記憶があるが、 その土地の自然や文化の差はあるにしても、 信号機の 「緑」 が 「青」 に見える如く、 気づかないことが見えないこともあろうが、 むしろ、 見るものに対してあらかじめの構えが出来ていて、 見えるものを見えなくしてしまっているのじゃないか。
ところで、 −− 「みる」 という字には色々ある。 「見る」、 「視る」、 「観る」、 「診る」、 「看る」 ・・・・
各々に夫々独自の意味を持っているが、 鮮やかな色調と、 力強いタッチで知られる中川一政画伯の写生に於ける眼の鋭さは、 例えば果物や花など、 見つめられた部分から傷み始めた・・・・と言われるほどの迫力があったそうだ。 一方、 偉大な画家の中には目に障害のあった人も多い。 モネは白内障、 ゴッホは緑内障、 ルノアールは近視、 レンブラントも近視、 モジリアニやグレコは眼球異常といわれる。 画家が常に正確な眼をもっているわけではなかろうが、 眼に障害があっても偉大な作品を創り出したとするならば、 真実を捉らえるのは、 中川さんの眼光もさることながら、 眼ばかりではないともいえる。
みる人の心をとらえる絵画というのは、 邪心のない幼児の表現の如く、 「真実」 を捉えているところにあるように思える。
子供の絵は、 ときに真実を教えてくれる。 「見れども見えず・・・」 といわれるが、 これは考えてみれば、 「絵画」 ばかりではなさそうだ。