「巻頭言」
「臓器移植に思うこと」
大滝俊宏


 平成10年6月に臓器移植法が成立してはじめて、本年2月28日に高知日赤病院にくも膜下出血にて入院した女性から臓器移植法にもとずく脳死判定をうけ心臓、肝臓、腎臓、角膜の臓器摘出、それにつづいて大阪大学で心臓移植、信州大学で肝臓移植、東北大学、国立長崎中央病院で腎臓移植が行われました。

 移植以外に助けることの出来ない患者さんがいて、一方に脳死と言われる人がいる。生前に臓器を提供する意志を示していれば、脳死の方から臓器を取り出し、必要な患者さんに移植する。その方が社会生活に戻れる。
一見合理的で問題のない事のようにみえます。海外では1967年に世界初の心臓移植が行われて以降、現在年間約3,000例の心臓移植が実施され、5年生存率70%と好成績です。ではなぜ、日本では68年の和田移植以降、30年間にわたり治療として行われなかったのでしょうか。今回の脳死患者の主治医がいみじくも、マスコミの報道姿勢を『まるで患者の脳死を待ち望んでいるかの如き報道は、患者家族の善意を踏みにじるものだ』と批判していましたが、臓器移植とは、ドナー(臓器提供者)があって始めて行えるもので、臓器提供者がいなければ成立しないのです。その意味では人の死(脳死)を待ち望む医療と言えるかも知れません。

 現代医療は臓器医療と言われます。生命は心臓、肝臓、腎臓など人体の各臓器の働きの基で維持されており、その臓器とは固有の働きを持った細胞の集合です。疾患はこれらの臓器の機能の悪化により生ずる訳で、病気を治療すると言うことは、各臓器の働きをチェックし不良な部分を投薬、手術などで回復させる、できなければ維持する事でしょう。その目標は生命を救うことであります。死とは現代医療にとって敗北と言い換えられるでしょう。

 救急医療の現場では患者さんは、まさに死線をさまよえる状態で運ばれてくるわけで、生命を救う為、懸命の努力がなされているのです。従来、臨床的な死とは心臓の停止を意味していました。救急医学の発達は個体の死(心臓死)と臨床的死(心臓は動いていても生命維持の中枢である脳機能の障害のため回復が望めない状態で治療を中断すれば早晩死にいたる)の間に時間的間隙をつくりだしてしまったのです。この間隙に臓器移植があります。

 法律が脳死と心臓死という2つの死を認めました。臓器提供意志カード(ドナーカード)を持っていた人が指定病院で脳死状態に陥った場合、担当の医師は救命の治療を続けながら死の判断を迫られるわけです。すべての医師が脳死を人の死とする基準を理解しているわけではありません。もし脳死の判定を受けたらその時点で、その人は人ではなくなり移植の為の臓器となることを承諾したことになります。

 マスコミは「そこに臓器移植を受けなければ助からない患者さんがいる、善意の意思表示としてドナーカードを持ちましょう。」と言っています。
しかし脳死状態に陥った患者さんには臓器を摘出することが人格を侵す事にならないのでしょうか。臓器移植には数千万円の費用を要します。そして、移植も待っている人数に比べ臓器提供数には限度があり、移植医療を受けられる人は、経済的に恵まれた運のいい人だけになります。
 日本では交通事故で死亡する人は毎年約1万人弱。経済不況と関連すると言われる自殺者は97年度に2万4、391人でした。社会として生命を守るため、何が必要か、もう一度考えてみたいと思います。


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